第11代齋藤用之助氏について

慶応元年上野彦馬撮影10代用之助

 第11代齋藤用之助氏は1859年(安政6)佐賀市諸富町山領に生まれ、幼名は安一。藩校の弘道館で学び、1887年(明治10)佐賀警察署巡査となりました。2年後、廃藩置県で琉球が沖縄県となり初代県令となった旧佐賀鹿島藩主鍋島直彬公の一員として、2等巡査として沖縄に赴任。その後、県行政職に転じ、中頭郡長、首里区長。島尻郡長と那覇区長を兼務するなど46年間に亘り官吏や実業家として、沖縄の近代化に大きく貢献しました。氏は沖縄の人が好むヒイジャー(山羊)料理を愛し、「ヒイジャー郡長」と呼ばれ、親のように慕われました。大噴火した硫黄鳥島の全島民700人の久米島移住の際は、住民の意見をじっくり聞き納得ずくの上、わずか10ヶ月という短期間で移住を実現させました。

 移住先では毎年、移住記念祭が開かれ、「今あるのは齋藤氏のお陰。神様です」と感謝されています。島尻郡長退官の際は、氏を思慕する1万人余の郡民が集まり、会場周辺の森や高台まで群をなすほどでした。1933年(昭和8)、佐賀市赤松町の自宅で他界しました。享年74歳。

齋藤佐渡、初代用之助、権右衛門、殉死の際の裃

 第11代齋藤氏の先祖は今から300年前、佐賀藩で誕生した武士道の書『葉隠』に登場します。初代の佐渡守、子の用之助、その息子権右衛門は忠義・豪雄の士等として記述されています。同書の中核的思想として「四誓願」があり、その中に「大慈悲を起こし人の為になるべき事」 という文言があります。第11代齋藤氏の体内には、硫黄鳥島の島民移住の取り組み等にも見られるように、「大慈悲…」の精神が脈々と流れていたのです。

依願免本官

 

第11代齋藤用之助の業績

実業教育の推進

 島尻郡立農業学校・水産学校・女子徒弟学校、那覇区立商業学校などを設立し、特に機織・染色の技術者育成に力を注ぎました。このため島尻各地でそれらの産業が盛んになりました。

道路整備事業

 那覇市と島尻各地との連結を図るため、与那原、糸満街道などを整備、街道と各村を結ぶための広い農道の整備、併せて農業用水源開発、軽便鉄道の整備など農業基盤整備は他郡の模範とされました。

産業基盤の整備

 製糖工場・農業試験場、信用生産購買組合での製糖工場創設の指揮を執り自ら台湾に数回にわたり赴き機械等の購入折衝。大干ばつの際の失業対策事業として摩文仁間切に2年7ヶ月をかけ珊瑚礁を開削し港口整備「用之助港」と命名され平成22年土木学会により土木遺産として認定されました。

学校教育社会教育関連の整備

 教育にも力を注ぎ、退官の際、奨学金として多額の寄付を島尻郡に申し入れ、体育奨学資金が設立されました。八重瀬町東風平にある記念運動場は郡長最後の事業として整備されました。

人材の育成

 産業振興の推進力となる人材育成を重視し、貸費留学生制度を郡事業として整備、人選し本土の職業専門学校に留学させ、農業・水産・機械・染色、土木建築など専門知識や技術を習得させる。卒業後は郡役所で専門の指導者として活躍できるよう配置したりしています。

硫黄鳥島住民の避難移住

 明治36年4月硫黄鳥島の硫黄採掘坑道より噴火爆発。郡長は島民700人の久米島避難移住を指揮、全員を納得させ10ヶ月あまりで移住を完了させ、住民の生活が安定するような施策も進め、百年を経た現在でも鳥島地区の人々からは、未だに神様のように敬われ、慕われています。

久米島字鳥島 七嶽神社

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第11代齋藤用之助

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